「…ヅラ」
ヅラ、と呼ばれたひとりの男は素早く後ろを振り返った。
目に飛び込んできたのは黒い、真選組の隊服。
トッカータ
桂は腰に挿してある刀に手を添えた。
チャキ、という音がして刀が鞘から外れる。
しかし目の前に立つ隊士は動こうとしなかった。
「大丈夫。あなたを捕まえる気はないから」
そう言ってニコリと笑う。
自分は今指名手配されているはずだ。
それなのに、何故。
数秒で頭の回線をフル回転させ考える。
そして刀を鞘に戻した。
「…」
呟くように桂が言った。
、と呼ばれた隊士はニコリと頷く。
桂はつかつかとの方へ近づく。
充分に間合いのあった2人の間は手を伸ばせば届く距離になった。
「お前…!」
ふいに桂がの胸倉を掴んだ。
は動じない。
のきっと桂より長いであろうポニーテールにされた黒く、美しい髪がサラサラと揺れただけだった。
桂がパッと手を離す。
そして軽くうなだれた。
「悪い」
の隊士服姿は凛々しく、美しかった。
普通より背が高いせいか黒のズボンをスラリと穿きこなしていてまるでそれが隊士服であることを忘れるぐらいであった。
そう、真選組は桂の敵であった。
自分のことをヅラ、と呼ぶもの。
それは古き友達、天人がこの江戸に侵入する以前から自分のことを知っている人のみであったはずだ。
何故最初すぐに気がつかなかったのだろう。
この女が変わりすぎたせいか。
確かという女はとても泣き虫で、怖がりでとてもじゃないけど真選組に入れるような気性ではなかったような気がする。
それにもかかわらずは隊士服を着て自分の目の前に立っているのだ。
「何のつもりだ」
「何が?」
桂が低く問えばは一呼吸置いてからゆっくりと返した。
「何故お前が真選組なんかに…!」
桂が震える声で言った。
、お前は俺の恋人だった。
俺は本気でお前を愛していた。
それなのに何故俺の敵に?
お前だって俺のことを愛してくれていたはずだ。
お前はどうしてそんなに変わってしまった?
は桂の問いには答えなかった。
「次、会うときはお互い剣を抜くときだわ。私はあなたを捕らえる」
はそう言って桂に背を向けて歩き出そうとした…のを桂が制止した。
肩をぐっと掴んで自分の方に引き寄せ、が何かを言い返そうとこっちを振り向いた瞬間唇をふさいだ。
「な…なにすんのよっ…」
少し怒ったような慌てたような声でが言う。
桂は勝ち誇ったように笑った。
「その程度で俺を捕まえようとはまだまだ早いな」
は一度だけこちらを振り向いた後何も言わずに去ってしまった。
桂は黙ってそのうしろ姿を見送った。
頭の中にはあの頃の記憶が再生されていた。
「私も連れて行ってよ!なんで私だけ…!」
桂は泣いてすがるの肩を掴んで自分のほうに向かせた。
「、わかってくれ、お前を危険な目に遭わせるわけにはいかないんだ」
静かに桂が言う。
「私だって戦える!」
「」
桂が少し強めの声で愛しく思う人名前を呼んだ。
「お前はまだまだ弱い…!」
攘夷戦争に参加する前日のことであった。
そうか、と桂は頷く。
そのために彼女は真選組に入隊したのだ。
、お前の勝ちだ。
きっと今の俺の剣はお前を斬れない。
この思いをひきずったままの俺の剣ではすっかり変わってしまったお前を斬ることはできないだろう。
の姿が見えなくなってからもう充分たった後、桂もやっと歩き出した。
|